経営者のキャラクターでその会社のカラーは決まると言われるが、私自身は自分で創業したので、後継者としての苦労はわからない。
しかし、往々にして後継者となる者には先代とのカラーの違いについて悩む事も多いのではないだろうか。
今、私の本業(株)シナガワでは二人の息子が後継者として修行の日々を送っている。
そんな彼らを見ていて、私なりに後継者としての心得、そして創業者として代替わりするときの注意点をまとめてみた。
なぜ私がこんなことを考えるようになったのかは、(株)シナガワの話を説明しながら紹介しようと思う。
”二人の継承者”
私の本業(株)シナガワは、1971年に創業し、今年で42年。
よく無事に続けてこれたと思う。
現在は二人の息子が後継者となるべく仕事に励んでいる。
長男は40歳。
1994年2月に(株)シナガワへ入社。
製造業の当社では、経営者自身がモノ作りを知らなくては経営をやってはいけない。
そのため、製造をはじめ、営業、その他全ての部署を経験させた。
2001年より東京営業所所長に就任。
2011年より取締役本部長に昇進している。
次男は38歳。
1997年1月に(株)シナガワへ入社。
長男と同じくあらゆる業務に10年間携わった。
2年前より取締役本部長に昇進。
二人とも5年前より責任を持たせ、経営に参画していた。
今ではそれぞれ経営者となり、着々と実績を積み上げていっている。
現在は二人の息子が主体となって会社を切り盛りしていってくれているが、そこまでたどりつくまでに紆余曲折色々あった。
”社長への助走期間”
「会社寿命30年説」を固く信じていた私は、(株)シナガワが25周年を迎える頃には真剣に経営のバトンタッチを考えていた。
そして2002年には当時専務だった人物に次期社長を指名した。
いずれは息子に代替わりするとしても、私から直接引き継ぐのでは無く、まずは血縁でない者を間に挟む方が交代しやすいと考えた。
なぜなら、親子間では仕事以外の感情も混じるが故に、うまくいかない事もたくさんある。
ならばいっそ、赤の他人から引き継いだ方が、息子も素直に引き継げるのではないかと考えたからだ。
指名された当時の専務は次期社長を継ぐ事を快諾してくれた。
そこで、まずは5年間の助走期間を設けて、その後交代しようと考えた。
しかし、助走期間であっても、次期社長に任せるからにはしっかり任せた方が良いと考え、私は経営には一切口出しないことを約束した。
こうして私が65歳を引退の時と定めて、助走期間がスタートした。
当時の(株)シナガワは、売り上げも順調に伸び、未来に明るい展望を思い描いていた。
現場の方もヘッドハンティングした新しい人材に工場長として入ってもらい、これで人事体制は万全だと思われた。
”帝王学”
さて、話は戻る。
後継者としての二人の息子は、幼稚園の頃より帝王学を叩き込んだ。
帝王学とは、要はリーダーとしての教育だ。
これは失敗を許されない者の究極の考え方である。
それは知識、経験、作法等幅広く人格を形成するものである。
何かをすべきことを説いたものではなく、むしろしてはいけないことを重んじた哲学でもある。
そしてさらに息子達には、「自分のポストは自分の力で勝ち取れ!」と行って聞かせ、決して私の方から与えはしなかった。
そういう意味ではかなり厳しくしつけてきたつもりだ。
その一例として、小学校の頃より小遣いは一円も渡したことはない。
子どもであっても我が家では、不労所得は一切あり得ない。
その代わり、稼業を手伝った場合は労働の対価として賃金を支払った。
お金は自分の身体を使って働いて稼ぐものだということを、幼い頃より身をもって教えた。
これは我が家の家訓である。
小学生が家でアルバイトをしているということで、学校の先生からは家庭訪問の際に注意されたこともあるが、「これがうちの家訓です。」とそのまま押し通した。
そんな息子達は、中学生の頃には仕事も一人前にこなすようになり、良き働き手となった。
その後、高校、大学と進学してもアルバイト先は当社だった。
大学卒業後は、2~3年はよその釜のメシを食った方が良いと修行に出し、その後(株)シナガワに就職した。
しかし、息子だからといって特別扱いは一切しない。
オヤジが社長だからと無条件に入社したわけではなく、他の者と一緒に面接を受け、その中で勝ち残ってきた。
もちろん最初から役職も何も無く、平から徐々に自力で昇ってきたのだ。
この二人の息子との関係は、親子というよりむしろ同志に近い。
苦楽を共にし、一緒に儲けようとがんばってきた。
”次期社長のギブアップ宣言”
長男にそろそろ責任を持たせても良いと判断したとき、東京営業所の所長に任命した。
長男とは、意見の食い違いや衝突はあったものの、基本的な考え方は私と似ており、任せても大丈夫だと考えた。
そして長男が東京へ着任してから、なぜか社内のバランスが崩れたように、営業本部と工場との関係がぎくしゃくし出した。
当社の営業本部と工場は2キロ程距離が離れており、この二つの拠点の間を人やモノが行ったり来たりしていた。
しかし、だからといって以前はとりたてて問題はなかったのだが、この時期から何かと意思の疎通がうまくいかなくなった。
そして、営業本部と工場がお互いに反目し合うようになった。
そのため、売上げも次第に落ち始めた。
このまま行けば会社自体がもたなくなる。
それを食い止めるためには、社内の大きな外科手術が必要だ。
まずは、営業本部を整理し、本社工場と統合することに決めた。
これには多額の費用とエネルギーが必要だ。
そのうえ、限られたスペースに営業本部を詰め込むのである。
かなり工夫を凝らさないとかえって効率を下げることにもなりかねない。
しかし、どこかで決断しなければ事態は悪化するばかり。
手をこまねいて見ているわけにはいかない。
よりによって、不運というものは重なるときには重なるものだ。
次期社長として任せていた専務が、社長を辞退したいと言い出した。
急降下する売り上げの責任を感じて、自ら辞任を申し出てきたのだ。
おまけに、「社長、お願いです。
社長としてもう一度戻ってきてください。」と懇願された。
こうして、5年間の助走期間は、思わぬ終止符を打つことになった。
専務への気遣いもあって経営には口出ししなかった私だが、任せた本人がギブアップとなると、これ以上放っておくわけにもいかない。
「伸ばそうが潰そうが、好きにしろ。」と言放ってきた私へのツケだろうか。
また再び私が経営の舵取りをすることになってしまったのだ。
しかしそうはいっても、一度落としてしまった売り上げと、お客様からの信頼は急には戻せない。
ここからの立て直しは、困難を極めるのは明白だ。
だが、やるしかない。
(株)シナガワという会社を信じてついてきてくれた社員を裏切るわけにもいかない。
難しい局面での社長復帰だが、これをやり遂げる者は私しかいないだろうと腹をくくった。
ここから、(株)シナガワの経営改革が始まった。
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