先日人から「歴史は何かの形で残しておいた方が良い。」とアドバイスを受けたので、
「クリエイション・コア東大阪」の誕生エピソードを書いておこうと思う。
これは、私がまだ今よりも少し若く、今よりも血気盛んだった頃に体験した出来事だが、
一人の人間の思いが国をも動かすという貴重な
体験だった。
東大阪の普通のゴム屋のおっちゃんである私が、「モノ作りをまとめて見せる展示場と、
その活動拠点が欲しい!」と国に嘆願したことが
発端となり、国から巨額の予算が降りて実際に建物が出来たのである。
今のような時代の変化が激しい時代には、一人の人間の思いや力は決して小さくはない。
まず一歩を踏み出せば、山でも動くのだ。
そのほんの一例として紹介したいと思う。
さて、「クリエイション・コア東大阪」とは、
製造業が多く集まる東大阪を代表するモノ作り支援拠点として存在している。
現在は通称MOBIO(モビオ)と呼ばれている建物だ。
MOBIO(モビオ)とは、「モノづくりビジネスセンター大阪
(Monozukuri Business Information-center Osaka)」の頭文字をとって
つけられた名称だ。
モノ作り企業の技術のマッチングを目的とし、
人と技術の縁結びの拠点として活動している場所だ。
ここには行政機関である(独)中小企業基盤整備機構や大阪府ものづくり支援課、
地元東大阪商工会議所等が入っており、様々な支援策を行っている。
また、行政関係機関やNPOがワンストップサービスセンターを設け、
都度モノ作りの相談に応じる窓口を開いている。
モノ作りの支援窓口とそれ以外にも、200ブースの常設展示場、
起業家が集まるインキュベーションオフィス、
16大学1高専が窓口を開く産学官連携相談窓口等が併設されている。
私が当初イメージしたモノ作り支援拠点とは幾分違いはあるが、
それでも国内でこれだけの設備を
伴ったモノ作り支援拠点は例がない。
そんな支援拠点である「クリエイション・コア東大阪」
がどのようにして出来たのかを書いてみたい。
”東大阪市が呼びかけた「この指とまれ!」の
異業種グループ”
平成9年、東大阪市が異業種グループを立ち上げるための公募を行った。
東大阪市の思惑は、多様な異業種を融合させることにより、
新しい技術や商品が生まれてくるだろうと考えてのことだ。
ちょうどこの時期はバブルがはじけて5年。
世の中不況のまっただ中にあった。
弊社(株)シナガワも創業25周年を迎え、このままただ漫然と
仕事をこなしていては生き残りが難しいと実感していた。
企業寿命30年説を硬く信じる私としては、
早く次の手を打たなくてはいけないと躍起になっていた。
そんな矢先にこの東大阪市から異業種グループ公募の案内が届いた。
この時期、大阪でも次々と新しい異業種グループが誕生していた。
次の一手を模索していた私は、次から次へとそれらのグループに入会してみた。
しかしどこもピンとくる活動をしているグループはなく、
「異業種グループなんて所詮仲良しグループでしか無い」
と思っていた。
この頃の多くのグループは、自己研鑽のため勉強会をメインにした活動がほとんどであった。
新しい人脈ができ、様々な勉強ができるのは悪い事では無い。
しかし、それでは私の考える次の一手にはつながらないのである。
そんな矢先に届いた東大阪市の公募に早速応募してみたものの、
さほど期待はしていなかった。
”モノ作りの町東大阪は有名にはなった、しかし…”
東大阪市の職員は、「新しい事業を、そして新しい産業を生み出すために
本気でやって欲しい!」と語気を強めた。
今までに無い気迫を感じた。
そしてこの時に集まった約100社のうち13社で、
ロダン21を立ち上げた。
そして私が初代代表幹事を拝命した。
以来、ロダン21の活動を一つ一つ進めながら、
次々とその知名度を上げる為に手を打っていった。
それらの活動が功を奏して、ロダン21はマスコミに
色々取り上げてもらった。
御陰さまで全国からモノ作りの相談が殺到し、
スタッフは家に帰る時間も惜しんで寝袋持参で対応するまでとなった。
しかし、そのときにはたと気がついたのである。
その当時はインターネットもFacebookも無い。
そんな時代でこれだけマスコミを通じて情報発信をし、実際に仕事にも結びついていった。
しかし情報を発信したものの、それをしっかりキャッチする拠点が無いと、
これより先の発展性は無いということに
改めて気づいたのである。
その頃のロダン21は、メンバーである谷口工業(株)の社長室を間借りして、
日々モノ作り相談に対応していた。
しかし、ここでの活動には限界がある。
しかもそれはロダン21だけの問題ではない。
ロダン21が客寄せパンダとしてマスコミに登場することで、
「モノ作りの町東大阪」の知名度も上がっていった。
だが、いざ何かモノを作りたいというお客様が、
どこへ相談すれば良いのか、何ができるのか、
どんなものなのか、何も分からないし、連絡のしようが無い。
ロダン21としてできることもたかがしれている。
全国からロダン21へモノ作り相談が殺到する中、
もっと情報をキャッチできる拠点が欲しいと思った。
ましてや、「新しい事業から新しい産業」へつなげていくためには、
ロダン21単独ではなく、東大阪という町としての拠点が必要だと痛切に感じた。
”モノを作っても、売るのがヘタな日本人”
漠然と私がイメージする、「モノ作りの町東大阪」のための「モノ作り支援拠点」。
何か良いサンプルはないかと考えていた。
そこへ、「台湾のトレードセンターが凄い!」という情報が入り、早速台北へ飛んだ。
台北で見たトレードセンターは、日本では見た事もないような規模と内容の建物だった。
台湾のトレードセンターには、1階はイベント会場。
2階から上の階は常設展示場で、1000ものブースが並ぶ。
台湾の企業にとって、トレードセンターに展示する事自体がステータスだ。
日本では、これだけの規模の常設展示場はまだ無い。
現地では「日本人はモノは上手に作るが、売るのが下手だ。」と言われた。
ここ台湾では作ったモノはとにかく見せて、しっかりと商売に繋げていた。
東大阪から来た私にはカルチャーショックだった。
その後何度か台湾を訪問し、次第に東大阪に欲しい
「モノ作り支援拠点」のイメージが出来上がっていった。
”急がば回れの根回し戦略”
台湾のトレードセンターを何度も訪問してイメージが出来上がったところで、
早速大阪府のキーマンの一人であるIさんに相談した。
私の構想に熱心に耳を傾けてくれたIさんは、
その後支援拠点の設立に向けて精力的に動いてくれた。
そのおかげで、まずは大阪府をはじめ行政担当者との会談にこぎ着けた。
忘れもしない平成13年1月31日。
大阪府、東大阪商工会議所、東大阪地元企業による第一回勉強会を開催した。
その名も「東大阪の活性化を考える会」。
メンバーは10名であった。
その後毎月勉強会を開催した。
1月から始まった「東大阪の活性化を考える会」は、
その年の3月頃からめまぐるしく動き始めた。
話はトントン拍子に進んだ。
ちょうどその頃緊急経済対策が施行された。
そのおかげで支援拠点の話は大阪府から国へと繋がり、
5月には大阪府知事が大臣と面談、府議会にて取り上げられた。
その後、当時の地域振興整備公団が大阪府庁に来庁し、
現地調査とヒアリングを行った。
同じく5月のうちに本部会議を開催し、支援拠点の話を持ち上げたが、
まだ熟度が低いということで却下された。
この支援拠点設立構想は、話が急に進みすぎたために、
逆に反古になる可能性が出て来てしまった。
大阪府も懸命に動いてくれたが、事が大きいだけに国が動かなくては
前には進めない。
これからは国をいかに説得するか…。
成功の鍵はその一点につきる。
さぁ、どうするか?
あとは地元企業の熱意で説得するしかない。
急がば回れの根回し戦略しか無いのである。
”日本初の中小製造業の「モノ作り支援拠点」”
その当時、このプロジェクトに賛同して動いてくれたメンバーは、
東大阪商工会議所会頭を筆頭に、専務理事、
そして私を入れてわずか3名の地元企業の経営者だけだった。
まずは、東大阪地元出身の大臣と面談し、「モノ作り支援拠点」の構想を熱く、
そして丁寧に説明した。
時の大臣は、我々の提案を非常に面白いと言ってくれ、
さらに具体的なアイディアまで提案してくれた。
これに気を良くして、今度はIさんを中心に綿密な計画を作り上げていった。
建物の仕様、パース、設備、内部のシステム等、
大阪府の職員がより具体的な構想図を描いてくれた。
さすが行政担当者である。
作業は、実にそつなく仕上げられていった。
着々と構想が計画へと形作られていくプロセスは、
言葉では表現できない嬉しさと楽しさで溢れていた。
一緒に参加していてこれほど血が騒いだことは、私の人生でこれまで無かった。
そして再び、5月末には仕切り直して「第一回東大阪モノづくり懇談会」が
開催された。
経済産業省への継続的な働きかけに加え、
都市再生本部への提案としても引き続き掲載された。
”ついに思いが天に届いた!”
翌月、経済産業省から地域振興整備公団の直接整備事業通常枠から、
まずは平成14年度に8億、
そして15年度に20億の予算が
大阪に割り当てられるとの報告があった。
さぁ、ここから大車輪だ。
14年度の概算要求の〆切が8月末であるために、
大急ぎで事業内容をまとめることが必至となった。
スケジュールとしてはかなりタイトで厳しいものであったが、
商工労働部からもなんとかこの枠に乗るとの正式解答があり、
急速に前に進み始めた。
実際には、初期に「クリエイション・コア東大阪」の北館建築に7億、
そして後期に南館建築の為に
20億の予算が降りることになった…。
ここから先の話は、また次の機会にまとめたいと思う。
しかし、よくよく考えてみると、私という一個人が思い描いた夢が、
他の人たちの夢と重なりあい、
やがて川の流れのように
大きなうねりへと展開していった。
このうねりはまるで、大河のようにどっしりと、また着実に、
前へ前へと動いていったように思う。
そしてこのうねりの中で、最終的にはどれだけ多くの人が
動いてくれたことだろう。
最初に相談した大阪府職員のIさんから始まり、
やがては国をも動かす力へと繋がっていった。
そのとてつもなく大きなエネルギーとあのスピードは、
一体なんだったんだろう?
流れの大きさと早さ、そしてうねりに何度も鳥肌がたった。
今思い出しても不思議に思う。
何か得体の知れない大きなエネルギーが怒濤のごとく流れていって、
その波にひたすら流されていったような感覚だ。
あれほど欲しいと願ったモノづくりの町東大阪としての「モノ作り支援拠点」が実現し、
今ロダン21はその施設に入居して日々仕事をしている。
これからさらに「モノ作り支援拠点」としてこの「クリエイション・コア東大阪」が
どう発展していくかは、今はわからない。
しかし、あの波の中に参加して、その一旦を垣間みたことは幸運だったと思っている。
「為せば成る、為さねば成らぬ何事も」。
まさにその言葉を体感させてもらった出来事だった。
私の脳裏に浮かぶ人たちに、ただただ感謝の思いである。
そして、今後この施設と東大阪という町がどのように発展していくのか、
その生き証人として事の成り行きを見続けていこうと思っている。
歴史は繰り返すというが、今の若い人たちが将来何か事を起こそうとしたときに、
それが国家事業や地域事業になると思った時、
こういう方法が可能であることを知ってもらうのは、有益な事だと思う。
これこそが、少し先に生きた人間として後の人たちにできることではないかと思うからだ。
先人がたどった道筋がどうだったかを知る事で、次の道筋を作り出していって欲しいと願う。
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