地に落ちた日本のモラル
日本のモラルが地に落ちていったのはいつ頃からだったか。
恐らく、第二次世界大戦以来、戦後からだったろう。
日本は経済発展を遂げたが、その反面拝金主義が蔓延し、日本人の多くがよりお金を求めて都会へと移動した。
その時期に工場が都市部に集中的に建てられ、日夜せっせとモノ作りに明け暮れた。
そしてその結果、価格競争は激化し、そこに働く従業員の多くは没個性化して単なる労働力となってしまった。
しかし、振り返ってみると戦前の日本はどうであったろうか?
私自身は戦中生まれであるが、物心ついた頃には物資に恵まれず、常に腹を空かせていた記憶がある。
そんな戦後の混乱期の中で、子ども時代を過ごしてきた。
しかし思えば貧しくはあるが、明るく楽しい思い出はたくさんあった。
以下に、私の子ども時代にはあったが、今は希薄になったと感じる事柄を挙げてみた。
- 親や目上の人間を敬う教育を受けていた。親孝行や年寄りをいたわることは、ごく当たり前だった。
- 自分よりも弱い者や目下の者に優しかった。
- 人目が無くとも間違ったことはしようとしなかった。
- 挨拶や感謝の言葉等、礼儀正しかった。
- 誠実であり、地元地域では皆助け合った。
- 勤勉であった。また、学べるということは恵まれていると認識していた。
今思えば、当時の人たちは「五徳」が自然に身に付いていたように思う。
道徳とは五徳(仁、義、礼、智、信)を身につけることである。
- 「仁」は他者に対する思いやり
- 「義」は正しい道筋。
- 「礼」は礼節ある言行。
- 「智」は正しい判断能力。
- 「信」は偽らず、欺かず、誠実であること。
誰が道徳を教えるか?
しかし、今日問題は誰が道徳を教えるかである。
昔は習慣化していた道徳を、この年末には文部科学省の有識者会議で、道徳の教科化が討議されたが、まだ方向は定まらずだ。
昔なら一緒に暮らす年寄りから教わった。
また、近所のおっちゃん、おばちゃんたちからも教わった。
しかし今は核家族化し、近所付き合いも乏しい。
だからといって学校での教育もまだ課題が多く、はっきりしたガイドラインも定まらない。
単に「昔は良かった」とは言いたくはない。
しかし、物の無い時代には無いなりの創意工夫があり、不便な中でもなんとかしようと、
努力があった。
そして子ども達も遊びの中での創意工夫があり、遊びもおもちゃも自分たちで作り出していた。
そんな中で子ども達なりのルールもあり、いわゆる「ガキ大将」がもめ事の仲裁役を担っていた。
当時も今と変わらずいじめもあったが、それを守る子ども達のルールもあった。
また、親だけでなく近所の大人も付かず離れず介入し、節度も守られていた。
貧しく不便な生活環境ではあったが、頑張ればなんとかなるという希望があり、そのためか、大人も子どももおおらかでたくましかった。
仮に子どもが道を踏み外して間違った事をしても、それを諫める大人がいて、またやり直せるのり代があった。
それと比べると今の社会では、若者が将来に夢や希望を持ちづらくなっている。
そのためか、人に対して思いやりに欠け、一つ何かを間違えれば、もう人生そのものが軌道修正できなくなるような息苦しさがある。
所在不明のイライラ
また市場を見渡せば、消費者としては安全で快適な生活を求めることができるようになった。
しかし反面、商品の情報が溢れかえる中で、良い事も悪い事も自己責任が常に問われる。
そういった世の中に、どこかしら神経質で他人任せな無責任さを感じてしまうのは、私だけであろうか?
何かにイライラし、その感情の向け先が見つからない。
そのイライラする感情は、思春期の若者特有のものではなく、大の大人がそんな状態にある。
しかも、無意識にだ。
おそらく今の子ども達は、そんな慢性的にイライラを募らせる大人達の顔色を見ながら育っているのだろう。
したがって、子どもの世界もどこかしら殺伐とした環境になっているように思えてならない。
このイライラ感は、身近なところからも影響を受けているように思う。
物が有り、満たされているはずなのに、何かが満ち足りていない。
そういった感覚は、日常の「食」の世界にもあるのではないか。
満ちているはずなのに、どこかしら埋める事のできない欠乏感。
その理由の一つが「食品ロス」だ。
物も食料も溢れる程あり、豊かな時代に生きているというのに、市場では「食品ロス」の問題が大きくなっている。
まだ食べられる食品を、食品メーカーや卸、小売店では、いわゆる3分の1ルールというものでがんじがらめにし、常に食品ロスが出るような仕組みになってしまっている。
また、今や家庭からの食品ロスの方が、それら業者のものよりも上回るようになったとの報告もある。
つい30年程前までは、今とは違い食品事情はもっとシンプルだった。
今のようにすぐに食べられるファーストフードも加工食品も無かった。
外食産業もこれほどまでには盛んではなかった。
そのため、今のような生活習慣病というものも珍しかった。
極論を延べると、先ほどのイライラする感覚も、生活習慣病も、誤った食習慣が原因である。
急に食の話にとって代わり、冒頭のモラルの話とどう関連があるのかと思われるかもしれない。
しかし、私は多いに関係あると思っている。
なぜなら、人間形成に一番大事な根幹の力は、体力と知力。
これを養うのはまさに「食」だからだ。
今こそ見直す「食」の大切さ
昨今は体の病だけでなく、精神を病む人も多い。
その原因を突き詰めると、食の大切さに行き当たる。
先のファーストフード、加工食品、インスタント食品には、多くの食品添加物が使用されており、
それらを常時摂取することで、心身に大きな影響を与える。
そしてまた、スーパーで売られているお惣菜にも多くの添加物が使用され、
そして産地も原材料も曖昧なものが多い。
そういったものを常食していると、体が必要とする季節感や味覚がどんどん損なわれていく。
人間の体には恒常性(ホメオスタシスとも言う)を保とうとする機能が備わっているが、こういった生物としての基本的な機能すら狂わせてしまうのが、今の食の大きな問題である。
しかし元々日本の食文化はこういった生物としての基本機能と環境とが、絶妙にかかわり合って出来上がってきた文化だ。
しかしそれが今、加工食品と食品ロスによって失いつつあるといっていい。
日本食が世界遺産になったと、喜んでいる場合ではないのだ。
今の日本は、伝統的な食文化の危機に直面している。
今の日本国には「食育基本法」という法がある。
国民が心身の健康を保ち、生涯にわたって生き生きと元気に暮らしていくための教育を推進する法律だ。
しかし、そんな法があるにもかかわらず、実際には何をどうやっていけば良いのか分からないのが現状だ。
だからこそ、この文章を読まれた方から、食についての勉強をして欲しい。
そのためには、
- 食事は自分で作る。
- 食材は自分の目で見て選ぶ。
まずはここから実践してほしい。
小さいことではあるが、人任せにせず、自分の舌と五感を使って挑んで欲しい。
こんな簡単なことも、案外実践するとなると難しいものだ。
忙しくて時間がない、料理を作れない等、言い訳は色々あるだろう。
しかしわずかこれだけのことでも実践できた人から、元気に、健康に、快適に生活できるようになるだろう。
モラルの話から随分脱線した様に思うが、人間力を高めるには、まず食から正すしかないと思っている。
案外、食の改善が進めば、本来あった日本のモラルも早く良い方向に向うだろう。
年初においてそう確信したので、改めてメッセージをお届けしたい。
まずは、今年もよろしくお願いいたします。
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