農業はモノ作りの根幹である。
私は40年のモノ作り経験から今はそう思っている。
そして今、少しずつではあるが実践し始めた。
以前から農業には関心があったが、実際にやり始めたのは最近のことだ。
農業を本格的にやろうと思い、奈良へ移り住んだ。
今は近隣に土地を借り、きゅうり、トマト、ナス、じゃがいも、さつまいも、白菜、キャベツ、豆類、タマネギ、シイタケ等、色々チャレンジしている。
素人の私がやる農業の真似事は、試行錯誤の連続だ。試行錯誤を重ねながら、農業の奥深さを痛感している。
本業の製造業では自分の技術や采配で、当たり前に完成していたモノ作りが、農作業ではその多くが自然任せ。
その生育は天候に左右され、病害虫、野生動物によるリスク等、様々な要素で影響を受ける。
実際に作ってみなくては、収穫量や納期もはっきりしない。
まさしく「自力」を離れた「他力本願」の世界であり、そこに自然の脅威を感じる。
そして改めて天に対して祈るような、謙虚な気持ちになる。それゆえ、収穫のときの喜びはひとしおである。
自然との共生がいかに大切か、それを思い知る瞬間でもある。
また、農業を通じて近隣の人たちとの交流も深まった。
近所の先輩方には、色々アドバイスをしてもらっている。
しかしそれでも失敗続きだ。一生懸命世話したつもりでも、実がならなかったり、実っても小さかったり。
ナス等は水が不足したらしく、固くて食えない実がついた。
しかし、こちらがわからないことを作物に問いかけても、返事はしてくれない。
肥料のやり過ぎ、水のやり過ぎにる根腐れ等、失敗から学んだことは大きい。
だが、失敗をも笑える仲間がいるというのは、楽しいものだ。
我々のモノ作りの世界では、失敗したらやり直すことができるが、農業は年1回の真剣勝負である。
つい先日も、ご近所の先輩方は皆立派な作物を作っておられるので、その秘訣を聞いてみた。
すると、「いやぁ〜、まだ50回しか作ってないから、まだよくわからないよ。」とおっしゃる。実に謙虚だ。
そして同時に「たった50回」の重みも感じる。
50年かけてたった50回しかチャレンジできないのだから。
そして私は、なぜうまい野菜が作れるのかその理由はわからないとおっしゃる先輩方を、「野菜作りの名人」と呼び、尊敬している。
その名人たちを見ていてもう一つ気がついたことがある。
それは、花や植物には人の気持ちが伝わっているのではないかということだ。
人も含め、生物の体の大部分は水からできており、その体内の水には地球上で流れてきた水が循環している。
そう考えると、改めて我々の体もこの地球の一部分であり、そしてこの植物たちも同じ地球の一部であることに気づく。
だとするなら、植物に人の気持ちが通じても不思議ではない。
ご近所の名人たちが、作物に愛情を持って世話している様子を見ていると、植物はまるでそれに応えるかのようにすくすくとよく育ち、良い実を付けている。
それをいつも眺めている私からは、まるで人の気持ちが植物に伝わっているように見えるのである。
こうして奈良の里山に暮らしてみて、自然の恵みを生活の中で体で感じるようになった。
その感覚は、私自身の中ですっかり忘れていた感覚だ。
それは、自然によって人は生かされているという感覚だ。
本当に日々、有り難いと思い、感謝する。
しかしその反面、我々日本人は本当にモノの大切さ、食べ物の大切さを分かっているだろうかと自問することもある。
今の飽食の日本を見ていると、その感謝の感覚は相当薄らいでいると思う。
いや、多くの人々は日々感謝すらしていないのではないか?
なぜなら、今では金さえ出せば何でも手に入る。
ゆえに、多くの日本人は自分の手で食べ物やモノを作ることをしていないからである。
先の名人たちは、「なぜおいしい作物を作れるのか?」という問いに「わからない。」と答える。
もちろん、一つ一つの小さな理由はあるだろうし、その知識は十分持っておられる。
しかし本当のところ「わからない。」と答える理由は、体で体得している感覚であって、頭や知識で理解しているのではないからだと思う。
それを一言で表現するなら、まさに「勘」としか言いようが無いが、その言葉にならない勘所の難しさを、実際に私はやってみて体感した。
しかし、それも少しずつ経験を重ねるうちに私でも習得していくことはできるかもしれない。
なぜなら、実際に作物を育ててみて、少しずつ作物との対話ができるようになってきたからだ。
それは、私が自然の中に溶け込んだのではなく、自然の方が私を受け入れてくれたように感じている。
本当に嬉しいし、有り難い。毎日感謝の気持ちでいっぱいになる。
今まで私が携わってきたモノ作りの世界では、天候に左右されることはない。
しかし、農業の世界では自然が相手で、天の恵みがなければ作物は育たない。
自分でそういう世界を体験してみて、五穀豊穣を祝う「祭り」の意味合いもよくわかる。
「祭り」はまさに、「命の喜び」の表現だ。
そして「祭り」の中には、喜びを爆発させる華やかさと同時に、神への感謝を厳粛に表す「神事」としての意味合いを併せ持つ。
今までの私は、「祭り」の華やかなどんちゃん騒ぎの側面にしか目を向けていなかったが、今は厳粛な気持ちでの「神事」として「祭り」を見るようになった。
終戦直後、モノや食い物が無かった時代に育った私は、いつの間にかなんでも金を出せば買える時代に生きていた。
しかし今また、原点に戻って安心安全な食べ物を、自ら作り出そうと思っている。それは長年モノ作りに携わってきて、命の無いモノ作りから、命のあるモノ作りへシフトしようとしているからだ。
そんな私から見れば、命あるモノ作りとは、命を育み生み出す農業へと帰結している。
パーツ加工から複合装置の開発まで。ソフトとハードを融合し、
モノ作り総合コーディネート
(株)ロダン21
「ロダン21情熱モノ作り連鎖」Facebookページ
インタビュアー:品川隆幸のFacebookページ
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制作協力:ものづくりビジネスセンター大阪 - モビオ / MOBIO -
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